研究の空洞化をふせぎ新しい基本的人権・社会権に根差した「わたしたちの大学」を奪還しよう。

10年前、ScienceDirectよりIEL Onlineの方が高額Data Baseであった。

しかし、生命科学を学ぶ大学院生が80人もいない大学でScienceDirectに7000万円のコストは必要なのだろうか。

工学分野を学ぶ学生500名しかいない大学でIELの1700万円は適切なのだろうか?

学生の一日の食費が340円である現代日本の社会で、である。貧困脱出ができず大学に通う機会さえあきらめなければならない若者が圧倒的な多数になろうとしている。

考えてみて欲しい、出版社ばかりが問題視されているが、いたずらにコスト意識を持たない研究ばかり広げてきた学会の責任はお咎めなしなのだろうか?出版社の高騰は年に7パーセントも膨れ続ける論文数を維持させるためでもある。ごみのような論文ばかりが出ては3年もたたずに誰も読まれないゴミに変わる。

この半減期の速さと出版頻度にかかる人件費が膨大に膨れ上がっている。迷惑なのは学生たちだ。

良識ある学者たちであるが、数にまかせた研究スタイルは相変わらずで、カロウシ目前の学生を一人、また一人と量産する一方で、強迫症的な心の病んだ研究者も増大する一方であり、医療費という形になって学生の生活を脅かすようになる。このままでいいいのだろうか?

グリーンjournalもいずれは叩かれることになる、ではないのだろうか。その意味でOAWに一石を投じたい。

<「天は人の上に人を作らず」ではなく「天は人の上に人を作らずといへり」が日本の真の文脈>

他人事、伝聞、客地意識な彼らが生み出したのは「そうはいってもさあ、あいつら生意気じゃね?だからさあ」と持ち出したのが「征韓論」である。武力をもってしても隣人と覇権主義とはそういうものである。覇権主義の反省の上に立ったはずの日本な筈なのだが「おしつけられた民主主義」という具合に基本的人権を得ようが高いスティグマのもとで敗北者を仕組まれ二度と立ち直れないほどの烙印を押して成長を阻害する。これが今の日本の格差社会で現実に起きている問題だ。

ところで占領政策とともに誕生した日本の大学にキリスト教主義の大学がある。だがキリスト教主義教育は織田信長の時代には近代測量や統計とあらゆる面で近代を中世期に持ち込む位の貢献があったわけ日本の百科事典で「イエズス会」というカトリックの一教団が日本の救世主のように大々的に記事にされるのは、イエズスで、で、日本の行政府は大いに機能アップできたことはいうまでもない。会が建てた大学が日本の宗教学の主導権を今でも握っているからにすぎない。

彼らの教育における基礎教育の徹底は見事だが、反面契約の前にひれ伏した学生たちの人権の低さは絶大だ。キャンパスに「BAKA YAMA」「AHO YAMA」など学生には研究に次ぐ研究で疲れ弊し疲れを癒そうと横たわった彼らに大学当局者が向ける言葉が「BAKA YAMA」「AHO YAMA 「天は人の上に人をつくらず」を自ら否定している大学と同じ文脈であることはいうまでもない。覇権主義の教育というのは基本的人権を蹂躙するところからつまりじまる。つまり国際社会の良心にに背を向けねばできないということを自ら証明しているようなものだ。

JAIRO CloudやJSAGEの運用に対してElsevierやSpringerが資本関連をしたという話題すら出さないのは、日本の学術社会へ利潤の見返りを渡そうという気がないからだ。

<民法施行をさせずに権力者が介入して書き換えさせた歴史=権力に屈した歴史の証人=法政大学「民法草案」>

法政大学は明治時代の「民法草案」を公開している。これは日本に法治国家の基礎を教えるために21年も日本に滞在されたボアソナード教授がパリコミューンの風とともに日本に説いた人権と自由社会の姿勢を、大隈重信ら悪党どもによってビスマルク式に民度の低い政治政策が通しやすいように公布をしても施行させなかった「ボアソナード民法」の書き換えになる弟子の梅謙次郎へ迫り、恩師の作り上げた法律を改悪する形で「権力者の圧力に屈した」原稿なのだ。しかしこのこのにもにもづいた日本の民法典は「憲法が変わっても120年以上代わり書き換えられる必要のない民主主義社会にも適用できる法律」として稀少な価値を世界に発信しつづけている。無名の人たちの学びの場に向けられる権力者の欲望のままの圧力の中で自由 民主主義、権利というものがどのように育まれていくのかを、世界的見地で検証しこれらを大切な共同の財産にできる可能性がオープンアクセス運動には含まれている。

いつも視点から見た場合に、日本の英雄や偉人とされる人たちが実は支配と洗脳の結果であったという可能性だって否定できないだろう。だが注意を要するのは、私は、そこで展開されたた学問の品質に感銘を受け新しい時代の担い手として創設者を超える存在に破たばいた学者や実業家は大勢いるだろうと思う。私はそのことを否定するのではないし、高度な教育を受けたられた人たちの誇りはどうか基本的人権に向かってほしいと願うのだ。。だたしながら、世界のあらゆる後続の研究者たちに現在の到達点を明け渡せることも大切なことだと私は思うのだ。

科学はそれらに禁断のメスを入れてでも立証するだけの勇気と力が必要になるし、それには平等と公平さと学問の府としての自立独立が維持強化されつづけていかねばならないだろう。反論と検証を真っ向から受けられるだけの対話環境が保障されないと学問だって暴力的なものになる。まして人々の人心掌握をするあゆみとなるはずの政策や人々の幸せと明日の必要を希求するための対話においてはである。

「天は人の上に人を作らず」というのであれば、本来、自国の自立をこそ重視すべきで諸外国のマネをして帝国主義ごっこにいそしみ隣国の自治と主権を脅かしてまで富を脱近代の思想はすでに存在していたし、後年ロシアで起こる労働者による革命は欧州の各国でより成熟した形で実現していったではないか。この民主化と格差社会の否定というメッセージは決して世界の歴史進化のプロセスで間違いではなかった。デンマークに至っては無血革命が実現し、王政に終止符を打ったではないか。

でも、ここで考え違いをしてはいけないのだ。王政や封建制に終止符を打ったから近代とはいえない。

高福祉型の教育力の高い社会は、手っ取り早く儲けるような視点や同報たちをだまして利潤をかすめ取るような狡猾な商売からは生まれない。日本では中世から近世にかけて「近江商人」近江商人の教えを受けた日本の企業は世界でも類をみない300年を超える歴史を刻んでいる。200年以上の歴史が行商を通しながら「三方よし」という商道徳を浸透させてきた。を刻んだ企業や学校の教えにはそれ相当の、その社会基盤と国民を支えてきたところの支持と教えがあった、ということは否定をしない。しかし、日本のお手本にしてきた国々は得てして侵略者の歴史を偉人のご特に語る詐欺師ばかりであった。それらの反省に立った新しい歴史というものが科学の発達には欠かせない。

オープンアクセスのチェーンハンドで新しい時代の生き方が生まれますように。

Views: 55

Comments are closed for this blog post

Organized by:

in partnership with our
Advisory Committee

Twitter Feed

All content subject to a Creative Commons Attribution 4.0 License unless specified differently by poster.   Created by Nick Shockey.   Powered by

Badges  |  Report an Issue  |  Terms of Service